☆新作♪早いもの勝ち☆ ルイヴィトン バッグ クッサンPM


●復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
聖書箇所:使徒言行録5・12-16/黙示録1・9-11a, 12-13, 17-19/ヨハネ20・19-31
2022.4.24カトリック原町教会にて
ミサのはじめに
古代からのキリスト教の流れには、大きく言って、東方教会と西方教会の二つがあります。西方教会(ローマ典礼のカトリック)では、今日は復活節第二主日ですが、東方教会(正教会や東方典礼のカトリック教会)では、今日が復活祭です。今日の福音では復活されたイエスの言葉「あなたがたに平和があるように」という言葉が3回繰り返されています。キリストの平和とは、キリストがともにいてくださる、だから何も恐れることがない。キリストがすべての人とともにおられるなら、もう武器や争いがなく、すべての人が愛に満たされる、そういう平和です。現実は程遠いですが、でも、復活を祝う今日、その本当の意味の平和がウクライナと全世界に実現しますように、心から祈りましょう。
ホミリア
ロシア語で日曜日のことを「ボスクレセーニャ」と言うそうです。これは元々「復活」という意味の言葉です。日曜日のたびに「復活の日」と言うのは素敵ですね。ちなみウクライナ語も調べてみましたが、「ネヂィーリャ」と言って、意味はただの「休みの日」らしいです。ウクライナはキリスト者の多い国ですが、ロシアも元々信心深い国だったのですね。神の御心に背くこの侵略戦争・大量殺戮をロシア人全員が支持しているわけではありません。ロシアの中に、ロシア人の中にも素晴らしいものがあることを忘れないようにしたいと思いますし、東方教会の復活祭である今日、ロシア人の信仰心・良心に訴えて、すべての命の尊重と平和が実現するように祈りたいと思います。
今日の福音は週の初めの日の出来事と八日目の出来事です。弟子たちの集まりの中にイエスが来られます。週の初めの日=日曜日は、まさに復活の日です。イエス・キリストは生きておられる、そのことをわたしたちは毎週日曜日に記念し、祝い、確認します。二千年前に起こったことではなく、今もキリストが生きておられることを祝うのです。
二千年前に生きたイエスは神がいつくしみ深い父であり、すべての人を例外なく大切にしてくださる方であると教えました。イエスは、その神の愛を伝えるために、ご自分もすべての人に対して惜しみない愛を示し、最後にはすべての人のために命をささげてくださいました。そのイエス・キリストは今も生きている、私たちはこの復活祭に、そして毎週の日曜日にそのことを祝うのです。
今日の箇所でイエスは弟子たちが集まっているところに来られます。恐怖に怯え、扉を閉め、内側から鍵をかけている弟子たちの集いの真ん中にイエスは来られます。そして「あなたがたに平和」と言い、弟子たちを信じる者にしてくださいます。最初の日、トマスは一緒にいませんでした。しかし、1週間後の日曜日、弟子たちの集まりの中にトマスもいました。イエスはそこに現れてくださり、トマスを信じる者に変えてくださいます。
わたしたちも同じ経験をしています。毎日曜日、復活の日に、イエスの約束、「わたしの名によって、二人三人が集まる中に、わたしもいる」と言う約束を信じてミサに来ます。この日曜日の集まりは本当に大切で、ここにこうして集まっているわたしたちの中にイエスは今も生きておられるのです。
ミサの中で何度も繰り返されるやりとりがあります。「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」。今年の待降節から「またあなたとともに」に変わりますが、どちらにせよ、日本語として自然なやりとりでないのは確かです。これは特別な対話なのです。復活された主が今わたしたちの中におられる、そのことを確認し合う、特別な、大切な対話です。「不自然だ」と思うより、「特別なのだ」と感じたいと思います。
トマスはイエスの復活を疑ったと言われます。他の弟子たちもイエスを見るまで信じませんでした。わたしたちの中にも疑いがあります。本当にイエスは今も生きていると言えるのか、どう考えてもそうは思えないような現実があります。
11年前の大地震を経験したこの地域が、3月16日の福島県沖地震で、また大きな被害を受けました。度重なる被害に打ちひしがれているような方もおられます。新型コロナのパンデミックも終息の見込みがいまだに立っていません。そしてウクライナでは悲惨な戦争が続いています。わたしたちが当然だと信じてきた国際社会の秩序は破壊されてしまっています。それでもキリストは今も生きている、と言えるのでしょうか・・・
キリスト教とは、二千年前のイエスと言う方が立派な教えを残された、だからその教えを守って生きていきましょう、という宗教ではありません。あのイエスは救い主であり、あの方は今も生きている。だから彼の方の言葉と生き方のすべては単なる教訓や道徳ではなく、今もわたしたちを支え導く、生きた言葉であり、あの方は生きた存在なのだと信じて、そのイエスとともに生きることです。
「イエスは今も生きている」それは結論ではなく出発点です。そこからわたしたちは出かけていきます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」今日の福音でイエスがおっしゃるように、わたしたちも生きておられるイエスによって派遣されていくのです。ミサの最後に「行きましょう。主の平和のうちに」という言葉がありますが、いつも今日の福音の場面を思い出しながら、イエスがわたしたちを今日、派遣してくださると感じていたいと思います。
キリストからゆるしを託されて、
キリストから愛を託されて、
キリストからいのちを託されて、
キリストから平和を託されて、わたしたちは今日もここから派遣されていきます。

