

右のイコンは、通常「ウラジーミルの聖母」と呼ばれるイコンです。神秘的な美しさを持ったこのイコンは、伝承によれば聖ルカによって描かれました。1131年にコンスタンティノープル総主教からキーウ大公ユーリー・ドルゴルーキーに贈られ、キーウに安置されました。1155年にユーリーの息子アンドレイによってウラジーミル(現ロシア領内)に移され、さらに1395年にモスクワに移されて、今はモスクワのトレチャコフ美術館所蔵となっています。
わたしは「ウクライナとロシアの聖母」と呼びたいように感じています。
●復活節第3主日
聖書箇所:使徒言行録5・27b-32, 40b-41/黙示録5・11-14/ヨハネ21・1-19
2022.5.1カトリック原町教会にて
ミサのはじめに
復活節第3主日。キリストの復活の光がこの世界を照らしますように。戦争と暴力の闇が打ち払われますように。悲しみと絶望の闇、憎しみと死の闇が打ち払われますように。すべての人のために、すべての人の救いといのちと喜びと平和のために、今日もこのミサをささげます。
ホミリア
3月16日の地震はこの近くでは特に南相馬市鹿島区、相馬市、新地町で大きな被害をもたらしました。地震で被害を受けた屋根の応急修理には専門的な技能が必要なので、そのためのボランティアが全国から集まっています。その中のFさんと仲間たちのチームがずっとカリタス南相馬に宿泊しています。まるでコロナ前のような活気が戻っています。ボランティアの来る方々は、ほぼ全員がキリスト信者でない方々です。
その中の誰かが「キリストは死んで復活したんですね」と言うと、他の人が「それは歴史的事実ですか」とわたしに聞いてきました。そこでわたしはこんなふうに答えました。「イエスという人が2000年前に生きていて、十字架で死んだのは歴史的事実です。でも復活というのは、そのイエスが死に打ち勝って永遠のいのちを生きる方となった、ということで、だから歴史の中で起こったことというよりも、歴史=時間の流れを超えた出来事であるとわたしたちは信じています。その意味で信じるしかない出来事なのです」
復活というのは信じるしかない出来事です。しかし、歴史の中で起こったこともあります。それは復活したイエスに出会った弟子たちが変えられたということです。福音書にはそのことが記録されています。弟子たちはどのように変えられたのでしょうか。
先週の福音は週の初めの日の夕方、弟子たちが集まっているところにイエスが現れたという話でした。イエスと出会った弟子たちの中に起こったこと、それはまず「喜び」でした。「弟子たちは主を見て喜んだ。」この喜びは最後の晩さんの席で約束されていたものでした。ヨハネ16章22節にこうありました。「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」ただの再会の喜びではありません。復活したイエスはいつも共にいてくださる。だからどんな時にも喜びを失うことはないのだ。今日の第一朗読(使徒言行録5・41)に、「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜(んだ)」という言葉があります。ユダヤの最高法院で尋問され、鞭打たれ、常識的には喜ばしいはずはないのですが、イエスに結ばれているという喜びはどんなときも奪われることがないのです。
そして先週の福音の箇所では、イエスが弟子たちに向かって3回「あなたがたに平和」とおっしゃいました。この平和も最後の晩さんの席で約束されていました。ヨハネ14・27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」これは周囲に何の危険もないという平和ではありません。イエスが神によって満たされていたように、わたしたちも神の恵みによって満たされるところから生まれる平和です。イエスが共にいるから何も恐れることがないという平和なのです。弟子たちの心の深いところにその「平穏、平安」が与えられるのです。弟子たちは復活したイエスから確かに「心の平和」を与えられました。
そして先週の福音で、喜びと心の平和と共に、弟子たちに与えられたのは「ゆるし」の使命でした。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」あなた方がゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現する、というのですね。これは最後の晩さんの席でのあの「互いに愛し合いなさい」という使命とつながっています。福音書ではありませんが、ヨハネの第一の手紙にこういう言葉があります。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(一ヨハネ4・12) つまり、わたしたちが互いに愛し合うならば、神の愛がそこに実現するというのです。復活したイエスとの出会いによって、弟子たちはこの愛とゆるしを生きるものに変えられたのです。
弟子たちの生き方を特徴づけるもの、それは「愛と平和と喜び」でした。そしてイエスの弟子たちの「愛と平和と喜び」が周囲の人々に伝わっていき、イエスを信じる人は次第に増えていきました。それが復活節のミサの第一朗読で読まれる使徒言行録に伝えられる初代教会の姿です。
イエスの弟子であるわたしたちの中に、愛と平和と喜びが実現しているならば、復活したイエスは今も生きていて、わたしたちと共にいることになる!
逆にもしわたしたちの中に、愛がなく、平和がなく、喜びがなかったとしたら、どうしてイエスは復活したという信仰が伝わるでしょうか。
今の世界は神を見失い、非常に暗く厳しい現実の中にあります。その中で、わたしたちキリスト者は「愛と平和と喜び」を生きる使命をいただいているのです。そのことをこの今だからこそ、しっかりと思い起こして、深く自覚したいと思います。
5月になりました。5月はマリアの月と言われています。わたしたちはマリアの中に、本当の意味で「愛と平和と喜び」が実現していると感じています。天使のお告げの場面から始まるイエスの母としての歩みの中で、特にイエスの受難・復活、昇天と聖霊降臨という流れの中でマリアの「喜び、平和、愛」が輝いています。
わたしたちがマリアと共に「愛と平和と喜び」を生きることができますように。
マリアの月にあたって、今年3月25日、フランシスコ教皇がささげられた「ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り」の一部を一緒に唱えたいと思います。今年は特に戦争という差し迫った状況の中でマリアと共に平和のために祈りたいと思いました。この中に、「天の大地であるマリアよ、神の調和を世界にもたらしてください。」という言葉があります。「天の大地」というのは耳慣れない言葉ですが、東方教会の修道院の賛歌から採られた言葉だそうです。天に上げられ、神のもとでの「愛と平和と喜び」に満たされているマリアが、わたしたちの世界に「愛と平和と喜び」をもたらしてくださいますように。何よりも、わたしたちキリスト者がまず「愛と平和と喜び」に生きるものとなりますように、心から祈りましょう。アーメン。

